Masukただ素材の換金に来ただけのはずだったが、妙なことになってしまった。
当初の目的といえば、ただ魔獣の素材を換金しリゼットたちの買い物に役立ててもらうことだったが――
「そうだな……マクダウェル家のメイドとして雇ってやってもいいな」
「ルイス様、いきなり何をおっしゃっているのですか!?」
「フン、別に構わんだろう? ……ああ、能力の事なら心配ないさ。教育を施せばな」
「いえ、そういうわけでは……」
どういうことかエルキュールの目の前では、アヤが先客の貴族の青年ルイスにおかしな勧誘をされている。
ルイスに会うのはこれが初めてだったが、彼が口にしたマクダウェルの家名には兼ねてから聞き覚えがあった。「……はあ、マクダウェルというと、あの王国議会の……?」
あまりに横暴な発言を前に、顔に戸惑いを浮かべながら、アヤはルイスに確認する。
とりあえず、当たり障りない会話から始めて平静を取り戻すのが狙いか。
「もちろん、そのマクダウェル家だ。ミクシリアの王国議会の一員であるマクダウェル家の長子、それがこのボクだ。――そのボクが誘っているのだ。どうだ、光栄だろう!」
自信たっぷりにルイスは胸を張った。
オルレーヌは王が君臨する国ではあるが、政治には貴族を中心とした議会も参加する。マクダウェル家も王国議会に召集される名家の一つである。
相当な名家であることには違いない。高らかに自慢するルイスの表情は、先ほどもまで店主に怒鳴り散らしていたとは思えないほど、清々しいものである。しかし、対するアヤの表情は曇っていく。仕方ないことかもしれないが、彼女のルイスへの心証は悪いようだ。
「考えてもみたまえ、この街の呑気な連中のことを。日に日に魔獣の脅威が増しているのにも関わらず、相も変わらず危機感がない。ボクたちマクダウェル家を始めとするミクシリア議会が、貴重な騎士たちを防衛のために配属してやってるからこそ、平和に過ごせていることにまるで気が付いていない」
ヌール住人への侮蔑を込めて雄弁に語りだすルイスと対照的に、アヤの顔はどんどん暗くなる。
この街が危機感がないという指摘は分からなくもない。今朝の広場での件のように、首脳が危機感を覚えているのに反し、ここの人々は魔獣についての興味が日に日に薄れているように感じる。
ただ、わざわざそんなことを口にしてもアヤのルイスに対する評価が落ちるだけだろう。
ルイスは結局何がしたいのだろうか。エルキュールはリゼットの方に目くばせした。「……そうねぇ……自分は聡明な人間だとアピールしているつもりなのかしら」
「止めたほうがいいんじゃないか。アヤは乗り気ではなさそうだが」
「……まあそれもそうだけど、アヤも今年で十六になったんだし……これくらい華麗に躱せるようにならなくちゃね」
小声で話しながらウインクするリゼット。いつも優しい彼女にしては少し厳しめな回答だった。
だがこれも、リゼットなりにアヤを思っての事なのだろう。エルキュールは事の成り行きを静観することにした。「貴様には目を見張るものがある。愚鈍な民が住む街にはもったいない。洗練された王都こそふさわしい。もしボクと共に来れば、貴様に相応する生活を保証してやろう。――クク、メイドとしてだけでなくボクの女としても可愛がってやってもいいぞ」
「……そういうことか」
ますます妄想が飛躍するルイスの言葉を聞き、ようやく彼の暴走の原因に勘づく。
こんなことが実際に起こるのかと疑問だったが、どうやらルイスはアヤのことを女性として好いているのかもしれない。これが一目惚れというものだろうか。こういったことに疎いエルキュールは、貧弱な知識を駆使してそう結論付けた。
好きな女性の気を引こうというには、かなり強引で常識に欠ける方法ではあるが。
「この辺鄙な街を抜け出しマクダウェル家に名を連ねる絶好の機会だぞ? さあ、早く答えたまえ。こんな幸運、滅多にないぞ」つらつらと好き放題に語っていたルイスはようやく一息つき、アヤに返答を促した。
こんな突飛な誘いが実を結ぶとは思えないが、ルイスのその顔は自信に満ち溢れ、申し出を断られるかもしれないという考えは微塵も浮かんでいないようだ。そんな彼の態度にアヤは呆れたような表情で息を吐いた。
「……ええ、こんな機会は二度とないでしょう。こんな辺鄙な街に住む私には過ぎたものですね。愚鈍な民のことなど忘れて、そのマクダウェル家の名声をぜひ王都で存分に活かしてください」
それからルイスの言葉尻を捕らえ、皮肉をたっぷり込めてアヤは申し出を断った。
存外毒のある物言いに、エルキュールは目を丸くした。こんなにはっきりものを言う子だっただろうか。エルキュールの知らぬ間に彼女も成長していたらしい。
「は……!? ……な、この女っ!」
何を言われたのか理解できずに呆然としていたのも束の間、婉曲に断られたことに気づいたルイスは、先ほど店主に向けていたのと同様に、怒りに身を任せアヤの方に手を伸ばした。
何もせず静観していたが、これは少し良くない。流石に見かねたエルキュールが、ルイスを止めようとしたその瞬間――
「ルイス様!!」
後ろに控えていたレイモンドが彼の暴走を止めた。
「……おいたが過ぎますと、お父上にご報告をしなくてはなりませんな」
続けてレイモンドはそう静かに忠告した。ただの主従の関係でなくお目付け役も兼ねているのかもしれない。
「ぐっ……ク、クソ! 少し顔がいいからって調子に乗りやがって! 久々にいい女に会ったかと思ったが、どうやら思い違いだったみたいだな。所詮、愚か者が集う街にはこの程度の女しか存在しないというわけだ。まあ、こんな場所、ヌール伯との会合がなければ訪れることもないが……フン、それも今回が最後だろうがな」
激昂したルイスは口調をより汚くして、先ほどまで求愛していた相手を詰る。
「……ルイス様?」
「わ、分かっている。……行くぞ」
再度レイモンドに釘を刺され、不満を露わにしながらもルイスは店を出る。レイモンドは店主とアヤたちに丁寧に詫びを入れてから、主人の後を追った。
◇◆◇ 「……はあ、なにあの失礼な人。常識がなさすぎるよ……」あの二人が店を出た後、アヤは大きく溜息をついた。
「ふう、せっかくアヤもいい年になったというのに、相手がアレじゃあねえ……残念だわ」
「……そっちの心配をするのか」
どこか抜けているリゼットを横目に、エルキュールは店主のいるほうへ歩いた。ルイスたちが去ったことにより、ようやく目的が果たせそうだ。
「よう、旦那。悪いな、変な客に目をつけられてな。待たせてしまった」
先ほどのルイスに対して使っていた敬語ではなく、店主は砕けた口調でエルキュールを迎えた。
「変な客……というのはどうかと思いますよ。曲がりなりにもマクダウェル家の人間ですから」
「とはいってもなあ、貴族というのはどうも好かん。あの傲慢さ、我が物顔で騎士を引き連れてることといい、自分の保身と出世の事しか考えてないんだろうさ。おまけに非常識ときたもんだ」
確かに貴族階級の人間には傲慢というか自尊心が高い人間が多いかもしれない。常識のなさはあのルイス特有のものだと信じたいが。
ともあれ、この店主のように貴族を嫌う人は一定数存在する。「はあ……騎士の連中もいざとなりゃ貴族どもを優先して守るんだろうよ……っと、悪い。いつもの通り換金に来たんだよな?」
「ええ、今回はこれです」
今朝の狩りで採取した狼型魔獣の素材を袋にまとめたものを、テーブルに置いた。
「……? 今日は数が中途半端だな……いつもはまとまった数を持ってくるのに」「そうですね、今日は――」
エルキュールが今回の来店の目的を話そうとしたとき――
「ふふ、この子……私たちが買いものに行くっていうから、お金を換金しに来てくれたんですよ、アランさん」
横からアヤを連れてリゼットが代わりに店主――アランに伝える。
「おお、ラングレーさんじゃないか、久しぶりだなあ。……ん? そっちの嬢ちゃんは娘さんだとして……まさか旦那もラングレーさんの息子だったのか!?」
心底たまげた様子でアランは叫んだ。アヤはアランの言葉に軽く会釈を返す。
だが、エルキュールの方はリゼットの暴露に思わず身を固くしてしまう。自分が注目されることに慣れていなかったのだ。確かにリゼットとアヤは同じ薄紫の髪を有しており、その顔立ちからも血の繋がりを感じられるが、エルキュールはそうではなかった。
アッシュグレーの髪に琥珀色の瞳、人間離れした雰囲気は二人とは異なるものである。当然彼女たちとも血は繋がっていない。
まあ、血の繋がりどころか、エルキュールにはリーベのように血は通っていないのだが。
幾度となく繰り広げたその思考に、エルキュールは自嘲した。「ああ……エルは養子なんですよ。びっくりさせてしまったかしら」
「……なるほどなぁ……すまねえな旦那、気を悪くしたなら謝ろう」
リゼットのいうことは間違いではないが、真実に迫るものでもなかった。とはいえ、エルキュールの背景にある事情を、アランは自分なりに補完したのか彼に謝罪した。
「いえ、気にしていませんよ。こちらこそ隠していたみたいで申し訳ないです」
もちろん全く気にしていないわけではないが、アランには日ごろからお世話になっているし、彼が悪人ではないことをエルキュールは知っていた。
家族以外の人間では最も関わりがある人物であるが、それでもエルキュールはアランに自分のことを多くは語らなかった。彼を嫌って話さなかったのではない。エルキュールには自分のことを話すといっても、何を話せばいいのかわからなかったためだ。
魔人であること、このヌールに引っ越してきたこと、人を避けてきた日々の生活のこと、すべてエルキュールにとっては忌々しいことであり、人に話せるものでもない。
「……そうか。ちょっと待ってな、すぐに鑑定してくる」
そう言い残し、アランは店の奥に姿を消した。店内には三人を残すのみで、一気に静かになった。
◇◆◇ 「わあ……この店には始めてきたけど、本当に変わった品揃えだね」「でしょう? せっかくだし、ここでも何か買って行かない? 今日はエルからお小遣いも貰えるし――」
珍しい品揃えを誇る店内の棚を前に、女性陣は目を輝かせている。
本当に買い物が好きなんだな、とエルキュールは少し離れたところで壁に背を預けて二人の様子を見守る。
いくらエルキュールがお金を足したとはいえ、調子に乗って散財してしまえば、肝心のニースの大市まで持たないだろう。「あまり羽目を外させないように注意しないとな……」
一つ息を吐き、エルキュールは二人を注視しながらアランの仕事が終わるのを待つ。
その間、エルキュールは先刻の出来事で気になった点を思い返していた。あの貴族、ルイスのことである。
彼はこの街のことを好ましく思っていないようだが、彼の口ぶりから察するに数日の間この街に滞在していたようだ。
ルイスの言動は一見すると辻褄が合わないように思えた。「……『ヌール伯との会合』……『今回が最後』……どういう意味だったんだ?」
去り際のルイスの言葉を掘り返し、思考にふける。
ヌール伯といえば、その名の通りこの街の一帯を管理する領主の名前である。
オルレーヌの街は王都の議会で定められた貴族が各々の行政を任され、定期的に王都の方から公務の監査が入る。 その監査のついでに何か話し合いをしたというのも考えられるが――しかし、今月はセレの月――俗にいう三月である。風の大精霊の名を冠するその月は、まだその時期には早かった。そんな時期に王都からヌールに赴くというのは違和感があった。
「まあ、考えても答えは出ないな……」
ルイスの目的はおろか、貴族の使命が何たるかすらエルキュールには理解できない部分がある。まだまだ学ばなければならないことは多い、ということにしてこのことは意識の片隅に追いやる。
「兄さん、何をぶつぶつ言ってるの?」
棚の商品を物色していたアヤがいつの間にかエルキュールの顔を覗き込んでいた。
「ん? ああ、さっきの貴族のことで少し考えごとをしていたんだ」
「……え? そ、それってもしかして、私のことを心配してくれてた……とか?」
小首をかしげてアヤは期待のこもったまなざしをエルキュールに向ける。彼女のあまりの目の輝きに、エルキュールはたじろいだ。
「……まあ、確かに彼に声をかけられることはアヤも良く思っていなさそうだったから、部分的にはそうかもしれないな」
「……む、なんか取ってつけたみたいな言い方……」
自身の求めていた回答ではなかったのか、アヤは残念そうに呟いた。
「ふふふ……アヤは『兄さんが私をことを大事に想っていてくれたら嬉しいなあ』と、思ったのよね?」
二人の会話に入ってきたリゼットが、アヤの言葉の真意を汲み取る。
「うっ……そ、そうだけど! そんなはっきり言わないで……私は兄さんの口から聞きたかったのに」
リゼットに指摘されたアヤは顔を赤くして俯いてしまった。どうやら図星だったみたいだ。
ルイスに声をかけられたとき、アヤは気丈に振る舞っていたが実際のところは不安を感じていたのかもしれない。「……そうだな。確かに、いきなり男性に声をかけられては、不安や恐怖を感じてもおかしくない。すまない、もちろんアヤのことは気にかけていたつもりだったが……これでは兄としてまだまだ相応しくないな」
自身の察しの悪さを恥じながら、エルキュールは謝意を示した。
「分かってるよ、兄さんが気にかけてくれるのは。……でも兄さんが兄として相応しくないっていうのは絶対違うよ」
アヤはエルキュールの目をしっかりと見据えてゆっくりと言葉を紡ぐ。
「それに……私が兄さんの妹で、兄さんが私の兄なのは、どんなことがあっても、誰が否定しても変わらないんだから、いちいち気にしなくていいの」
「……ああ、その通りだな」
また思考が暗い方向に行くところだった。
確かに、たとえ本当の兄妹でなくても、種が異なっても、十年共に過ごした二人の間には確かな絆があるはずだ。そのことを確認し、二人は互いに笑いあった。
それから、今度はエルキュールも伴い三人で店内を物色していると――
「旦那ー! 終わったぞー!」
袋を載せた木の平皿を手に、アランが店の奥から戻ってきた。鑑定が済んだようだ。
代金を受け取ろうとエルキュールはカウンターの方に向かう。「今回は狼の爪が十二個、牙が六個、細かい毛も合わせて、全部で一万二千ガレだ」
「少し待ってください。今回持ち込んだ素材はいつもよりも少ないはずなのに、金額の方はそこまで変わらないのですが」
「あー……ま、ちょっとしたサービスさ。さっきは悪いことをしちまったし……あと、旦那には世話になってるからな」
「とはいっても、取引は公平でないと……一方的に得をするのはよくないと思いますが」
アランの好意を前に、エルキュールは渋い顔をした。素材と金との取引の間に突如として現れた人情に、エルキュールは戸惑う。
無論、家族以外の人間に優しく扱われるのに慣れていなかったのもある。「気にすることはないさ。店の事だけじゃない、旦那が魔獣を狩ってることは街にとってもいいことだと思うぜ。魔獣は増えてるってのに騎士の野郎どもは最近は数が減っているしな……ホントにいい仕事してるぜ」
「……うーん、まあ……分かりました。そういうことでしたら、ありがたく受け取っておきます」
別に大それた理由でそうしているわけではないが、過度に遠慮するのもよくないことかもしれない。エルキュールは通常よりも多い額を受け取ることに決めた。
「じゃ、またのご利用を」
アランの挨拶に会釈をしてから、エルキュールはリゼットとアヤの下に戻る。
「ほら、これを。俺はもう約束の時間が迫っているから、これ以上は同行できない」
換金したてのガレをリゼットに託す。もうグレンとの約束まで時間が残されていなかった。
「……ちょっと待ちなさい、エル」
エルキュールを引き留めると、リゼットは彼から受け取った袋の中からいくらかガレを取り出し彼に差し出した。
「……これは?」
「おまけしてもらったんでしょう? そしてそれはあなたに向けられたもの、その分はあなたが持つべきだわ」
「……別に必要ない。俺には使う当てがないから」
先ほども似たようなやり取りをしたが、それは遠慮しているからというよりもエルキュールには金に対する執着がなかったからだ。武器の手入れや服のために多少使うことがあっても、リーベの人間のように生活するのに金はそれほど必要ではなかった。
「この後お友達と魔獣と戦いに行くんでしょう? 一緒にお茶でもしたらどう? ……それに、息子にこんなにしてもらったらお母さんの立つ瀬がないわ」
「だから友達ではないし、俺にそんな機会なんてあるはずもないんだが……まあ、ありがとう」
まだ勘違いしているリゼットはともかく、これもありがたく受け取ることにしたエルキュール。たまには二人を見習って散財するのもいい経験かもしれない。
「はあ、いいなあ……そのグレンさんって人。……もう少し強くなったら、私も魔獣狩りに連れて行ってね、兄さん」
「ああ、そのうちに」
「お土産たくさん買ってくるから楽しみにしてるのよー?」
「……あまり調子に乗りすぎないようにな」
二人と軽く言葉を交わし、エルキュールは扉をくぐる。
外に出ると、春の温かな陽気がエルキュールを迎える。約束の時間はもうすぐのようだ。
光の魔術師、ジェナ・パレットとの邂逅。アマルティアの魔人ミルドレッドが引き起こしたとされる魔獣の一件。そしてそれに巻き込まれる形となった、カイル・クラークの失踪事件から四日が経過したその日、アルトニーの詰所に一本の魔動通信が入ってきた。 差出人はロベール・オスマン。このオルレーヌ全国に配置された騎士各員の頂点に立つ選りすぐりの猛者その人である。齢五十に差し掛かろうとは思えない精悍な顔つきと鍛え抜かれた岩のような肉体。毅然とした態度で部下を指揮するその姿に部下からの信頼は厚く、密かに熱狂的なファンもついているという噂だ。 だが、傑物とすら謳われるその御仁からの直々の連絡、その内容というのは誰もが思いもしないものであった。『エルキュール・ラングレーという青年と話がしたい』 取次ぎに来たカーティス隊長からそんな伝言を受けたとき、月並みな表現にはなるがエルキュールは心底驚いていた。 王都に向かおうと準備を進めていた只中の連絡であるのもそうだが、そんな時宜に適った偶然性だけではない。 片や全国の騎士を束ねる大人物。片や人の目を避けながら生活する、表向きは単なる平凡な青年。 圧倒的な立場の違い。その中にいる両者に接点が生じるなど微塵にも考えていなかったというのが主たる理由だった。 しかもこの通信は公的な理由ではなく、あくまでもロベールの個人的な用件のために行われたのだという。 焦らずにはいられなかった。 ただでさえ最近は魔人である身でありながら、堂々と動きすぎたと反省していたところだったのだ。 その正体が明るみになってしまったのではないかと思うと、気が気ではなかった。 通信機を持つエルキュールの手は震え、体内の魔素が嫌に活発になっているのを感じていた。 だがそれを表に出すほどエルキュールも柔ではない。大事なのは平静を装うこと。十年に及ぶ生活で培った図太さを十全に発揮して、ロベールとの通話に臨んだ。「……はい、エルキュールですが」「ああ。お初にお目にかかる、オルレーヌ騎士団団長のロベール・オスマンだ……済まないね、突然無理を言ってしまって。しかし、どうしても君に話しておかなければならないことがあってな」 低く、微かに濁りが混じった声色。しかし、決して老いぼれているという印象はなく、どちらかと言えばくすんだ銀のような渋く、味わい深いものであると感
彼のヌール事件から八日が経ったセレの月・11日のこと。破壊された街を復興しようとする計画が開始され、それに先駆けて郊外の空き地には仮設住宅が設置されていた。 事件当時ヌールの外にいた住人、そして襲撃から逃げ延びた住人、それまで各地で難民生活を送っていた人々も、その動きに乗じて徐々にヌール跡地へと集まっている。 その何れもが、元居た住処を追われ、知人の多くを失うことになった。それでも彼らはその地で再会できたことを喜び、互いに街の復興に尽力しようと、青空のもとで誓いあったのだった。 ヌール復興には比較的体力のある元住民たちのほかに、王国騎士団本部からの要請で赴任した騎士が参加することになった。 先んじて行われたのは具体的な被害状況の確認。一見して全ての住宅が崩壊しているということもなく、細かく見ていけば生活に使えそうな物資がそのまま残っているかもしれないという希望があった。 念のため騎士連中が跡地内に魔獣の残党がいないかどうか魔素を探り、崩落の危険がないと分かったうえで、有志の住人たちは廃墟と化したヌールを探索することになった。 一連の動きは迅速で、元住民たちは我先へと内部へ入っていった。近くにいた騎士たちも、探索における危機はないとはいえその住民たちの勢いに注意の声を飛ばす。 ずっと帰りたかった場所がもう目の前にあるのだから、そんな簡単に止まるわけもない。 暫くしないうちに、その場にはお揃いの薄紫の髪が映える二人の女性のみが残された。 一人は物腰柔らかな壮年の女性。もう一人は利発な雰囲気を醸す少女。身体的特徴から母娘だと推測できる彼女たちは、先ほどまでここに集っていた元住民たちの一員であった。 だがどういう訳か、その脚は先へと進む素振りを見せず、何か焦っているようにも取れる表情で辺りを見回すばかりである。「……失礼、見たところあなた方もヌールの人間のようですが……中には行かれないのでしょうか? もし中の様子が心配でしたら、私が付き添うこともできますが」 これを不思議に思った騎士連中のうちの一人が彼女たちに尋ねる。少し圧倒されてしまうほどの長身と、人当たりの良い爽やかな笑みが印象的な青年だった。 対する母娘はまさか声をかけられるとは思っていなかったのか、動きを固くした。だが相手はどこからどう見ても一般の騎士である。そのことを認めた女性はすぐ
カーティス隊長とエルキュールらとの会合はそれからつつがなく終わりを迎えた。と言ってもあの話題以降のエルキュールは全くと言っていいほど頭が働かず、その内容の記憶もどこか朧気であった。 最低限の情報として、カーティス隊長が王都の騎士へ橋渡しをしてくれ、迎えを手配してくれること。その間エルキュールたちはこのアルトニーに滞在しなければならないことは、念のためグレンとジェナに確認を取ったが。 会合を終えたカーティス隊長はすぐにでも騎士団本部と連絡をしたいとのことで、一足先に詰所へと戻っていった。 何の偶然か泊っている宿が同じであったジェナとは、各々の部屋で別れるまで帰りを共にした。そのジェナも、相部屋であるグレンも、揃ってエルキュールを心配してくれていたのを覚えているが、エルキュールにはどうにも上手く返せた自信がなかった。 まるで意識に靄がかかってしまったかのような酩酊感の中。時間が過ぎゆく感覚すらも忘れ、気付けばエルキュールは暗くなった室内でベッドに寝転がっていた。 隣のベッドにいるグレンの煩いいびきが、鈍麻したエルキュールの意識にさざ波を立たせてくれたのだろうか。 それとも夜に混じる闇の魔素に、魔人としての本能が刺激されたのか。 光に群がる虫のように、もしくは糸で操られる人形のように。エルキュールの身体は無意識のうちに、暗闇に閉ざされた街へ誘われていた。 アルトニーの夜風に交じって舞う闇の魔素、空気中に含まれるそれを、エルキュールはやけに敏感に感じ取っていた。振り返れば今日は随分と力を消耗した、その反動で身体を形作る魔素質が反応しているのだろうとエルキュールは思った。 疲弊した身体には夜の散歩が丁度良い。エルキュールのコアも魔素質も、闇属性の魔素を中心に形成されているので、意図して魔素を吸収をしなくても闇の魔素を浴びることができるのだ。 欠乏したものが満たされていく感覚は心地よく、人の世界に生きる魔人にとって何より貴重なものだ。身体だけでなく精神もまた安らいだように感じられ、エルキュールの足取りも徐々に軽くなる。「……あ」 そうして黒く染まる道を闊歩していた足がふと止まる。今朝――ひょっとすると昨日の朝かもしれない――通り過ぎたアルトニーの広場、そこにはかつてのヌールと同じく魔動鏡が鎮座していた。 もちろん広場なのだから魔動鏡があるのは当たり
会合の約束を取り付けたエルキュールは、すぐさまクラーク一家と歓談していたジェナも来るように誘った。 当の本人は快諾してくれたのだが、彼女に懐いているカイルとサラは難色を示し、説得するのに少し手間取ってしまった。 どういう訳か、特にカイルはジェナが離れることに殊更に抵抗しており、事の発端のエルキュールを見る目は、まるで親の仇を見るような眼つきであった。 話を聞く限りジェナとカイルたちとは共にヌールに行く約束を交わしたらしく、それが果たされぬまま別れることを惜しんでいるようだった。 ヌールの街は崩壊した。だから約束も無効となる。簡単だが残酷な論理は十にも満たない幼子には受け入れ難いようで、説得するのには苦労した。 彼らはしばらくしたら故郷であるガレアに帰るとのことで、結局のところ時を見てガレアに遊びに行くというジェナの提案で、なんとか子供たちも了承してくれたのだった。 カイルたちがここまで渋るのも偏にジェナの人徳からなのだろうが、こういう場合にはそれすら面倒を起こす種になってしまうのだと、エルキュールは難儀したのだった。 一悶着ありはしたが、カーティス隊長の案内の下、件の店までやって来た一行。木の香りが心安らげる居心地の良い内装の店だったが、この時勢からか閑古鳥が鳴いており、悲しいほどすんなりと奥の個室に案内された。 席に着くや否や各々が注文を取り始め、エルキュールも渋々それに倣った。魔人である彼は食事を採らないためだ。 動力源となる魔素はもちろん料理にも含まれているが、そこに含まれる魔素の属性はまちまちな上効率もすこぶる悪い。 家族と同じ時間を共有するために、口に入れた料理を魔素に分解するという技能を身につけこそしたが、家族以外の人間、しかも複数人で揃って食事をするのは彼にとって中々心理的負担が重い行為だといえよう。 詰まるところ、食事を採りながらの会合を認めたとはいえ、エルキュールはこの食事会に対して消極的であった。 結局、エルキュールはお腹がすいていないという理由で簡単なサラダとスープを注文するに留めた。 共に食事をしたことのあるグレンはともかく、ジェナやカーティス隊長には疑問に思われることを覚悟していたのだが、それも杞憂だったようだ。 カーティス隊長からは「私も年なのか最近は食が細くなってしまいましてねぇ」などと共感を受けた。ある
アルトニーの森を脱したエルキュールとジェナが騎士団詰所に帰還したのは、もうすっかり陽が落ちてしまった頃であった。 詰所に先に逃げ延びていたグレンとカイル、未だ帰ってこないジェナたちを心配するクラーク一家は、二人の無事に大いに喜んだ。 クラーク夫妻は腰を痛めるのではないかと心配するほどエルキュールらに頭を下げていたし、ずっと不安と緊張を抱えていただろうサラは大声で泣きだす始末。事件の渦中にいたカイルは自分のした行いを猛省し、そんな妹に申し訳なさそうに何度も謝っていた。 それぞれが思い思いに感情を爆発させる様に、エルキュールはもちろんのことジェナやグレンも若干押され気味だった。 それに追い打ちをかけるが如く、遠くから騒ぎを駆け付けた騎士連中までもがその人の渦の中になだれ込んできた。 一兵卒の過失によるこの事件に責任を感じていたアルトニー騎士たち。もちろん全員ではないがカーティス隊長を筆頭に数人が集い、事件解決に動いてくれたエルキュール、グレン、ジェナの三名に丁寧な陳謝と賞賛を送った。 ここまで事が大きくなるとは思っていなかったエルキュールは、正直いって多くの人間に囲まれるというこの状況から逃げ出したくあったのだが。 彼の弱気に目聡く気付いたジェナとグレンによってそれも阻まれ、むしろかえって二人からの揶揄いを受けることになったのだった。 詰所内はまるで祭りでも催されているのかという程の賑わいを見せていたのだが、やはり勢いというのは時が立てば落ち着くもので、次第にそのほとぼりも冷めていった。 先ほどエルキュールらにお礼を述べてきた騎士などは、この時間になってもなお仕事に追われているらしく、早々とそれぞれ持ち場に戻っていった。 この街が抱えている問題は依然としてあることを再認識させられるが、とにかくこれからの展望について語るのなら、今が絶好の機会だろう。 疲弊した精神を癒すべく、集団から離れていたところで暫しの休憩していたエルキュールは、場の空気が落ち着いていくのを感じながら決意した。 王都へ至る道にグレンのほかにジェナが加わった。まずはそのことを知らせようと赤髪の彼を探す。 こういう時、背の高さは素晴らしいものだなと思う。部屋の隅の方でカーティス隊長と話しているグレンの姿を容易に確認できた。「そういえば、グレンの家はあのブラッドフォードだったな
「分かりやすいように、君が話してくれたことと照らし合わせて話すとしようか」 これから話すことの全容を知っているのは、エルキュール自身を除けばもはやグレンくらいしかいないだろう。あまり自分のことは周囲に語らないように心掛けてきたので、いざ核心に迫る部分を自ら曝け出すとなると緊張が抑えられなかった。「まず、そうだな。君が言っていたという黒づくめの男だが……あれは恐らく俺のことだ」「ん? え……? えぇぇええー!!?」 ジェナの叫びが木々を突き抜けこだまする。確かに今のは突拍子もない発言だった。訂正し、順序だてて補足する。「その、俺は元々家族とヌールの方に住んでいたんだ。そこで魔獣を狩り、そこから採れた素材を家計の足しにしていた。君が聞いたのは恐らくそのことだろう」「あー、そっか。確かにそうかもしれないけど……って、え? ヌールに住んでいたってことは――」 過去形の表現。もしくはそうでなくてもエルキュールが言ったことがどういう意味を持つか、ジェナには容易に知れたかもしれない。「……あの事件の日。魔獣の大量発生の知らせを受け、念のために俺はある組織について調べてみることにしたんだ」「アマルティア、だね」「そう。結果としてヌール近辺の平原で彼らの痕跡を見つけたが、それは意味を為さなかった。陽動にまんまと嵌り、何とか追いついたころには、彼らが魔獣を操って街を攻撃し始めた後だった」 感情の色を乗せず、淡々と語る。本題でもないところなのでさっさと流したいという思惑からだったのだが、聞いているジェナの表情は悲痛に溢れていた。 とはいえ既に飲み込んだこと。要らぬ感傷を与えないように、言葉を矢継ぎ早に繰り出す。「動機は不明だが、アマルティアは人間を汚染する他にも、俺という存在を仲間に引き入れたかったようだった。そんな勝手な都合のために、不幸にも無関係だったヌールの街が巻き込まれた」「……まるであなたにも非があるみたいな言い方だね」 それは実際そうだろうと、言いかけた口を噤む。ジェナは責めているのではなく、暗にそれを否定しているからだろうというのが理解できたからだ。自身がどう捉えるかは勝手だが、その健気な思いは無下にはしたくなかった。「それはどうだろうな。けど俺は、俺の大切なものを傷つけたアマルティアを許せなかったし、無力な自分にも嫌気がさした。だから一人
ローブに身を包んだ男を逃してしまった苛立ちをぶつけるように、エルキュールは正面に構える大蛇魔獣――シュガールを睨みつける。 その鋭い視線に触発されたのか、緋色と黒色の鱗と紫の魔素質に彩られた体を大きく伸ばし、シュガールは大きく口を開けて威嚇した。 伸びた体はこの広い部屋の半分を占領し、開かれた口腔は人間を容易く丸呑みできるくらいに大きく見える。 正直言って、今まで戦ってきた魔獣が赤子に見えるほどの威圧感だった。 男の扱いからしても、そこらの魔獣と比べてもかなりの力を持っているのは明白である。 しかし、数の不利からかシュガールは慎重に二人の出方を窺い、攻めてくる様子は見られない。
遺跡の祭壇部屋の前にて、グレンの提案に同意しようとしたエルキュールの言葉を奥から発せられた声が遮った。 奥にいるのはあの人影のみ。つまり、あの人物がエルキュールらに向けて言葉を発したことは明白だった。 動きを悟られないよう十分な距離をとっていたつもりだったが、こちらの動きが知られていたらしい。 突然声をかけられたことで声を発しそうになるが、二人は何とか息を殺し相手への警戒を強めた。「ふむ、静観……か。――悪くない選択だ。尾行の腕前はもう少し磨いた方がいいと思うがね」 ローブを纏っているので外見を知ることはできないが、声質は男性のもののようだ。低く力強い声に硬い口調、そのいずれもが
魔獣が落とした石片を手掛かりに、二人は北に位置する遺跡を目指す。周りはもはや開けた平原ではなく、木々が茂る林である。 鬱蒼とした木々で空が覆われ、視界が悪い。閉鎖的なその環境は人間の手が介入していないため、魔獣が住みついているようだ。 途中、何回か魔獣に襲われることもあったが、その度に二人は連携しこれを撃退していった。 ところが、その回数が十に差し迫った頃――「だーーっ!! 流石に数が多すぎねえか!? どうなってんだ、さっきからよ!」 立て続けに魔獣に襲われ、ついに我慢できなくなったグレンが叫んだ。その赤い髪は彼の苛立ちを表すかのように見える。「なあ、エルキュール。この辺はいつ
グレンの宿代を賄うため、二人は平原を歩き魔獣を探していた。ヌールの門付近から移動して少し経った頃だが、辺りを見回しても魔獣の影すら見えない。 魔獣がいなくては換金用の素材も手に入らない。思うようにいかない状況に、グレンは苛立ちを隠せなかった。「この辺にはいねえみたいだな……ったく、普段は魔獣なんてそこら中に湧いてやがるってのに」「ここ一帯の魔獣は、既に俺が討伐してしまったからな……」 エルキュールは毎日の日課として魔獣を狩っているが、今回はそのことが仇になってしまったようだ。「クソ……この調子じゃ結構時間がかかりそうだな……ん? お、そうだ――」 怠そうに愚痴を吐いていたグレン